黒い傘
囁くように。
女「こんにちは」
女「はじめまして」
静かな音楽
女 いつからだろう、黒い傘の、あの女の子を見かけるようになったのは。 冷たい雨の降る夕暮れ時だったろうか、それとも雪の降りしきる吹雪の朝、 そうだ、真っ白な雪の世界、小さな黒い染みが見る間に広がって、いつのまにか小さなあの女の子が私の中を大きく占める存在になっていったんだ。 名前も知らない、話をしたこともない、ううん、顔すら、黒い傘が邪魔をして、見たことがないんだ。 それでも、なんだか、そわそわと気掛かりでしょうがない。 声をかけてみようかと思う、 思ったことはあるのだ、でも、なんだか怖いんだ。 円満とは程遠いけれど、夫との安定した生活。近所の人達との、天気がいいだとか、悪いだとかのつまらないお喋りをする日常。 それが、大きな黒い傘に隠れた小さな女の子に話しかけた途端、一瞬にしてなくなってしまいそうな気がして怖いんだ。 どうして、そんなふうに思ってしまうのだろう、わからないくせに、いつも、こうしてためらってしまう。怯えてしまうんだ。
少し元気に。
女「こんにちは」
女「はじめまして」
女「私、この近くに住んでいるんだ」
女「君もかな」
女「大きな傘だね、黒色の、お父さんの傘かな。」
女 簡単なことだ、返事がなければそのまま、通り過ぎればいいだけのことだ。でも、返事があれば。返事があればどうしたらいいんだろう。
女の実家、家の中。
テーブルに新聞の束を置く音。
父 「どうしたんだ、顔色が悪いぞ」
女 「あぁ、お父さん、ただいま」
女 夫は三日間の出張、一人でいてもしょうがないと、久しぶりに実家に帰ってきた。
女 「母さんは」
父 「一泊二日の温泉旅行、お仲間とな」
女 「なるほど、その言い方。定年退職、ごろごろしている亭主として立派に疎んじられているわけだ。たまには姉さんや兄さん、帰ってくるの」
父 「お前くらいだな、思い出したように帰ってくるのは」
女 「まぁ、しょうがないよ、姉さんも兄さんも子育て大変だからさ」
父 「おまえはどうなんだ」
女 「ん、私」
父 「子供は」
女 「あぁ、そういうのはいらない」
父 「亭主殿は欲しがっているんだろう」
女 「それが大問題だ、最初はいらない、君さえ居てくれればって甘い声で話してくれてたんだけどなぁ」
女 父さんの読んでいた新聞、大見出し、生後すぐの赤ん坊がゴミ袋の中で発見された事件だ
父 「亭主殿はお前が本気で子供がいらないとは思ってなかったんだろう。男は無条件に女は子供好きと思い込んでいるからな」
女 「今にして思えばね」
父 「新聞に載るよりかはましというものだな」
冷蔵庫を開ける音。
女 「あぁ、なんもないなぁ。父さん、朝から何か食べたの」
父 「動かないからな、腹も減らない」
女 「そんなこと言ってると、動かない、じゃなくて、動けないになってしまうよ」
冷蔵庫を閉める音。
女 「ご飯、食べに行こう。母さん、どうせ、旅先で美味しいもの食べているんでしょう」
父 「そうだな、出かけるか。外で食べるのは久しぶりだ」
女 「父さん、何食べたい」
父 「お前は何が食いたいんだ」
女 「優しくて美しい、とっても親孝行な娘が自腹で父さんに美味しいものを食べてもらおうっていうんだからさぁ、自分の好きなのを言ってよ」
父 「不思議なものだな」
女 「ん、何が」
父 「お姉さんと呼ばれるのか、それともおばさんと呼ばれるか、その端境の娘なのに、親から見れば、まだまだ、小学生にもならない子供のように思えて仕方がない」
女 「困ったもんだよね、親ってのは」
父 「そうだな、困ったものだ。齢を取ると目が悪くなって二重写しになるんだ、今のお前と子供の頃のお前とがな」
女 父さん、懐かしそうに少し笑みを浮かべる、いま、子供の私、どんな表情をしているのだろう、笑顔、浮かべているのかな
父 「そうだな、中華でもするかな」
女 「中華いいね、思いっきり食べよう」
父 「確か、商店街にあったろう」
女 「そうだ、あったよね、豚の角煮が美味しいお店」
女 「ね、父さん」
父 「なんだ」
女 「子供の頃のあたしって、可愛かった」
父 「ああ、自分の娘だからな」
女 「あたしのこと、大切だった」
父 「大切に思っている、今も昔もな」
女 「ありがとう、大切に思ってくれる人がいる、へへ、それが嬉しい」
商店街の賑わい。
女 一歩先を歩く父さんの背中。あたしが初めて父さんに会ったのは、小学一年生だった、新しいお父さんよ、って気楽な感じで母さんがあたし達三人を前にし紹介したんだ。父さんの一瞬、驚いた顔を忘れない、母さん、自分は独身で子供も当然いないって言っていたらしい、まさしく、結婚詐欺だ、でも、すぐによろしくって、父さん、あたしたちに笑いかけてくれた
商店街の中華料理店、扉を開ける音、横に開く。
店員 「いらっしゃいませ」
女 空いたテーブルにつく。几帳面に背を伸ばして座る父
女 「小皿もらって、一品ずつもらおう。その方が、いろんなの、食べられるよ」
父 「それもそうだな、お前は若いんだからたくさん食べろ」
女 「父さんこそ、しっかり食べて体力をつけてくれないとさ、父さんが寝たきりになったら私が介護しなきゃならないみたいだし、元気にしててくれないと大変だ」
父 「大丈夫だ、お前にはお前の人生がある、お前の世話にはならんよ」
女 「力強いお言葉、ありがとう」
間
女 餃子にチンジャオロース、もちろん、角煮。いくつかをまとめて注文する。冷えた水を少し口に含む、なんだか良い感じだ。ん、写真入りのお品書きを見ている父さんの顔
父 「どうした」
女 「親子しているなぁって、自分の親孝行ぶりに感動していた」
父 「気を使いすぎるな、元気でいてくれればそれだけでいいんだ。ところで、お前、うまくいっているのか」
女 「えっ」
父 「亭主殿とうまくいっているのかってことだ。結婚した娘が不意に戻って来て親孝行をしだす。鈍感な男親でも、家で何かあったのか、くらいは思うものだ」
女 「あるけど、言うと、あたし、泣き出すかもしれない、いいの」
父 「ああ、泣きながら餃子を食え。思いっきり食って、思いっきり泣けば、すっきりして良い道筋も見えてくるものだ」
女 「それが泣けないんだ、自制心が強すぎて」
父 「娘は父親と似た男と結婚する傾向があると何かで読んだが、お前は、お前自身が俺に似てしまったようだな」
女 「父さんも自制心が強いの」
父 「あぁ、こんな娘と向かい合って飯を食おうというんだからな」
女、小さく笑いながら。
女 「ひどいなぁ、父さんってば。でも、なんだかそういうのも嬉しいんだ、今はね」
間
女 角煮が最初に来た、小皿にとりわけお箸を添えて渡す。なんでもない、こんなことが嬉しい、ずっと一人で食べていたから
女、電話口にて。
女 「晩御飯、食べないの。そう、帰りが遅くなるの。え、ううん、そうじゃないけど、たまには一緒に晩ごはん食べたいかな、とか・・・、ううん、ごめん」
女 なにを謝ってんだろう、私は。謝る理由なんてないはずなのに。心が、私の心、崩れてしまいそうだ
一瞬、すべての音が消える。
女 いつからだろう、見かけるようになったのは。そうだ、はっきり思い出した。雪の降った次の日の朝だ、何もかもが、真っ白に包まれた世界、黒い傘のあの子だけが白を拒絶するかのように道の反対側、立っていた。 誰もいない二人っきりだった、道の向こう側へ行かなきゃと思った、なのに私はおびえて立ちすくんだ。どうしておびえたんだ、どうして。
父 「どうした、ぼぉっとして」
女 「ううん、なんでもない」
女 父さん仕方無さそうに笑った。
父 「まるで迷子だな。流され続けて、自分の道を見失い、立ち尽くしているようだ」
女 「なら、どうすればいいの、私」
父 「お前の真っすぐを行けばいい、それだけのことだ」
女 「真っすぐ走ったらすぐにぶつかってしまうよ」
女 父さん、いたずらっぽく笑みを浮かべた。
父 「人の体は七十パーセントが水ということだ。水というものは、動かなければ腐ってしまう。人もな、動いて行く、変わっていく、そうしないと腐ってしまうぞ」
女 「私が腐りだしているっていいたいの」
父 「少なくとも気持ちはくさっているだろう」
女 「まっ、そうだけど」
父 「ぶつかっても、足を止めるな。走り続けていればそのうち何処かに行き着くし、案外、そこが自分の行くべきところだったりするもんだ」
女 そういうと、父さん、豚の角煮を頬ばる。
父 「お前も食え、悩んだ時は食う。そうすれば頭へ回る血が胃腸へ流れて、悩まずに済むというものだ」
間
父 「俺は子供の頃から金科玉条、大切にしてきた言葉がある」
女 「理性に対して常に正直であれ。耳にたこができるほど聴かされた」
父 「それを忘れるな。心の真ん中に立てておけ」
女 「父さんはほんと、頑固な人間だな。母さんも苦労が絶えないだろうね」
父 「俺の石頭は」
女 「面倒なことに、末っ子の私が引き継いでしまった。子供の頃から姉さん羨ましく思っていたんだ。私もあんなふうに自由に振舞うことができたらなぁって」
父 「あきらめろ、人の性分はかわらん」
女、少し笑う。
女 「自分の性格、納得しているよ、少しだけ気に入っている」
女 お茶をいただく。どうしてだろう、いろいろ悩むこともあったはずなのに、私、父さんと話してすっかり和んでいる。こんなに気持ちが落ち着いたの何年振りだろう。
父 「少し顔がやわらかくなったな」
女 「わ、私だって、色々あるんだよ、色々さ」
父 「そうだな。生きていれば色々ある」
女 父さん、仕方なそうにほんの少し笑みを浮かべる。こんな表情も、父さんするんだ。
女 「別にさ、子供が嫌いってわけじゃないんだ。ただ、今の私には無理だよ。なんていうかな、子供を得ることでたくさんの何かを得ることができるだろうと思う。でも、きっと、失うもの、うしなわなきゃならないものがある、それがいとおしい。たまにね、姉貴の子供、世話するのはいいんだ。でも、それが自分の子供でずうっと世話しなきゃって思うと不安になるんだ。足元がふらふらして倒れそうになるんだ」
父 「専業主婦はおまえには、似合わないかもしれんな」
女 「専業主婦か・・・、うわぁ、ちょっとなぁ。狭い部屋に閉じこめられた気分だ」
女 「それに、あいつの給料だけだと、今住んでいるマンション出なくちゃならなくなる。それは厳しいな」
父 「生活のレベルを下げることが出来ないってやつか」
女 「生活のレベルを下げる、少し下げるくらいならいいんだけどね、おかずの量が減るとか、買い物の量を減らすとかさ、欲しいけれど、今必要でないものは買わないとかね。でも、共働き夫婦の生活レベルってのは、維持するか、どんと落とすかの、二つに一つだからなぁ」
父 「そういうもんなのか。頼りない親は、なんとかせよと言葉のみだな」
女 「がきじゃないんだから、父さんの世話にはこれ以上ならないよ。それよか、父さんは悩みとか、ないの」
父 「ある」
女 「私のこと」
父 「ん」
女 「上の二人はうまくいっているのに、末っ子はどうしようもないな。甘やかしすぎたか」
父 「まぁ、甘やかしすぎたのは違いないな。上の二人とは、年も離れていたからな。しかし、お前達がどう生きていくかは、お前達自身が悩むこと、俺が悩んでもしょうがないだろう」
女 「それじゃ、母さんのこと」
父 「確かにな。朝から晩まで居なかった人間が、急に、一日中、目の前でぼぉっとしているわけだ。うっとおしくもなるだろう」
女 「夫婦仲、うまくいってないの」
父 「いや、悪くはないだろう、良くもないがな。お互い、空気と喧嘩してもしょうがない、そう思っているだろうな」
女 「少なくとも父さんは母さんを空気と思っているわけだ」
父 「透けて見えるわけではないがな。まぁ、それでも悩みというほどのものではない。うまく言えないが・・・」
女 父さん、少し顔を傾げる、父さんは何かをしっかり見ようとすると、顔を傾げる、左右の視力がかなり違う所為だ。何を見ようとしているのだろう。
父 「年をとって、暇になると妙に子供の頃が甦ってくる、無性に子供の頃に戻りたくなる」
女 「子供に戻って人生をやりなおしたいとか」
父 「いや、子供の頃に戻りたいというのは正確じゃないな。子供の頃に見た風景、出会った情景、出会った人達に会いたい、そう思えて仕方がない。取り残されてしまったような気がするのさ」
女 「父さんの叔父さんはまだ生きていたっけ」
父 「俺が子供の頃に出会った人達、その出会った頃のままに会いたいってことだ。人生の中で、少しずつ組み上げていったジグソパズル、完成したつもりでいたのに、気づけば、虫食いしたように、あちらこちらのピースが落ちて何処かに行ってしまっている。それをなんとか、拾い集めたい、そんなことをな」
女 「私ほどの親孝行な娘でも、それは無理だ。私も年をとったらそんなふうに思うのかな」
父 「さぁな、ただ、俺もこの先、それほど長く生きるわけじゃない。くたばるまでは、こうしてなんとか生きていくだろうがな、ただ、子供の世話にはならんよ。親孝行はいらん、お前は自分を精一杯生きていけばいい、何が大切で、何が必要じゃないか、見極める目はあるはずだ。人生は思うより短いぞ。人は生まれた瞬間から死ぬ準備を始めているのだからな」
女 「私に大切なもの・・・、必要なものか」
女 「あのね、訊いても良い」
父 「なんだ」
女 「ねぇ、父さんはどうだったの、いきなり子供が三人も出来てさ」
父 「自分以外は他人だ、親であろうと、女房であろうと、兄弟であろうと、子供であろうとな。だから、無理して家族を装おうとも思わなかった、ただ、一生をかけた実験なのかも知れないとは考えた、血の繋がりを、思いの繋がりが越えることができるかどうかのな
女 兄貴も姉も私も、父とは親子だけれど血は繋がっていない。母の連れ子だ。だから、父さんには血の繋がる人はもういない。
女 「実験は成功だったの」
父 「わからん」
女 「どうして」
父 「俺も当事者だ、分かるはずがない、間抜けなことだ。ただ」
女 「ただ」
父 「良い娘と息子がいてくれて良かったと思っている。俺も歳食ったな、臆面もなくこんなことを言うとは」
女 私は子の目の前にいる人が自分の父親と素直に思うことができる。まだ、小さかったからだろうか、兄さんや姉さんはいまも 血の繋がる人と付き合いがある、私にはない、顔も覚えていないのだ、多分、大切なのだ、目の前の、思うことで家族になる、父さんが。私は成功例だったのかもしれない
女 「あのね、お父さん。・・・あのね」
女 初めて、黒い傘の女の子のこと、・・・話をした。
道路沿い、車の行き交う音。
女 父さんと二人、歩道に設えられたバス停のベンチに座る。 バスで帰るわけじゃない、ただ、父さん、ふいっと思いついたようにベンチに座ってしまった、そして、車の行き交う夜の道を眺めている。
父 「子供の頃を、ひとつ、思い出した」
女 父さんが道を眺めたまま、呟いた。
父 「とても大切なことなのに、大人になると忘れてしまうことがたくさんある、そんなひとつだ」
女 どうしてだろう、一瞬、父さんが小学生くらいの少年に見えた気がした。
父 「理性において正直であれ、その言葉を忘れるなよ」
女 父さん、そういうと、ベンチの背もたれに背中を預け、目を瞑ってしまった。どういうことなんだ、これは。幹線道路、目の前をヘッドライトを灯した車が何台も行き交う。風が少し冷たい。父さん、帰ろうよ、暗いのは嫌だよ ふと目の端に黒い影が見えた。傘、黒い傘だ。ぎゅっと父さんの手を握った。
父 「ん、来たか」
女 父さん、体を起こすと、ゆっくり振り向いた。
父 「後ろを見てみろ」
女 黒い傘が目の前にあった。目深に傘を差していて上半身は見えないけれど、黒いスカートとその足元だけが見えた。
父 「選びなさい、この子を受け入れるか、拒絶するか。どちらを選ぼうとお前は俺の娘だ、それにかわりはない」
女 「父さんてば、わけがわからないよ。どうしたらいいの」
父 「この子に寄り添いたいか、拒絶したいか、それを選べばいいだけだ。拒絶すれば、この子は二度とお前の前には現れない。拒絶しなければ・・・、それは俺にもわからん」
女 どうしてだろう、恐怖や不安よりも、初めてこの子がいとおしく思えた。寂しくはないのだろうか、傘の影で泣いてはいないのかと思う。自然とベンチから立ち上がっていた。 黒い傘の女の子が不意に後ずさりし、背を向けると歩き出した。
父 「それもありか。さてと、歩くか」
女 黒い傘の女の子の後を追って歩く。幹線道路の歩道、橋の手前を折れて、土手を歩く。土手を離れて、細い路地。家灯かりが濡れたアスファルト道路を鈍く照らす、赤ん坊のような猫の泣き声、意味の分からない人の言葉、まるで異国を歩いているようだ。一瞬、光が目に差し込む、繁華街、酔った男と女が大声を上げる。横断歩道を渡り、向こう岸へと行く。確かに人の言葉だけれど、妙にくぐもって何を話しているのか分からない。
女 「お父さん」
女 父さんの手をぎゅっと握った。
父 「父さんに「お」が付くのは久しぶりだな」
女 「何処へ行くんだろう」
女 少し前を黒い傘の女の子が振り返らずに歩き続ける、何処まで
父 「わからんな、ただ、これは方違えだ」
女 「なんなの、それ」
父 「目的の場所へ真っすぐ行かずにあちらこちら方向を変えながら目的地へ向かっているんだ」
女 「どうして」
父 「それが目的地へたどり着く唯一の方法だからだろう」
女 いつの間にか、住宅街に出た。瀟洒な住宅街が続いている、でも、なんだか変だ
父 「変だな、そうか、街灯も窓明かりも、灯り一切がこの街にないんだ」
女 でも、なんだか赤い。夜の中に急に西日が入って来たみたいだ、そっと、後ろを振り返って
父 「後ろを見るな。お前では耐えられんだろう」
女 「お父さん、それって」
父 「珍しいところに来たということだ。角を曲がるぞ」
女 お父さん、ぎゅっと手を握って、少し駆け出す。黒い傘の女の子を追って、角の家の向こうを曲がった。
女 「女の子がいない、見失った。」
父 「ああ、そうだ。捜せということだ」
女 そう言って父さん、ポケットからボールペンを取り出した。
父 「歳を取るとな、物忘れがひどくなる、だから、いつも書くものを持っているというわけだ」
女 父さん、私にボールペンを手渡した。
父 「掌の上にそれを立ててみろ。そして倒れた方向へ向かえばいい」
女 「子供みたいだ」
父 「本当のまじないは得てしてそういうものだ。大人の了見、思案というものが、真実に霞をかけてしまう。ボールペンを摘む指の力加減、受ける掌の角度、それが行く道筋を教えてくれる」
女 本当に行きたいところ、本当に。私、やっぱり、あの子に会ってみたい、ううん、どうしても会わなきゃならない。どうしても・・・。左の掌を星の空に向ける、立てたボールペンは、これは羅針盤だ。私と父さんは、夜の海、二人、漂っている。ボールペンは左に倒れた
父 「左だな」
女 「うん」
間
女 随分歩いた。どれくらい、ボールペンを手のひらに、辻を曲がったろう。変だ、ほのかに赤い住宅街、朝が来ても良いくらい歩いたはずなのに。
女 「父さん」
父 「どうした」
女 「なんだか、変だよ。」
父 「あぁ、変だな。」
女 父さん、平気なふうに言う
女 「うん、もう朝が来てもいいはずだよ」
女 「どうしてだろう、目が慣れたのかな、少し明るくなった気がする。」
父 「上だ、空を見上げてみろ」
女 なんだ、黒いはずだった空が、なんだか、赤みを帯びている。あっ、見る間に空が紅く燃えていく
女 「空が、空が燃えているよ、空一面が炎に焼かれている」
女 父さんと私を空が紅く照らし出す。並ぶ家々も燃えるように赤く染まり、道路も赤く鈍色に輝いている。立ち止まってみる、雨の降った後か、アスファルト道路の窪みに溜まった水溜まりが紅く燃える空を鮮やかに映しだしている。
父 「つまりはな、向こうから来てくれる内に会っておけば簡単だったということだ」
女 「私、何がなんだかわからないよ」
父 「もう一度訊いておこう、お前はその黒い傘の女の子とやらにどうしても会いたいのか。会わずに済ませられないのか」
女 「会いたい、どうしても会いたい。なんだか、いとおしくて仕方がないんだ」
父 「仮に自分自身が死ぬようなことになっても、それでも会いたいか。会わなきゃならんのか。」
女 穏やかに言う父の声。私、睨むようにして答える
女 「どうしてかわからない、でも、どうしても会わなきゃならない。・・・死ぬのは嫌だけど」
女 父さん。ぎゅっと唇をかみしめて、おもむろに口を開いた。
父 「大きな願いを叶えようというなら、それにふさわしい代償が必要だ。昼と夜の狭間、お前は炎に燃えるあの空へと身を投げなければならん、落ちていかなければならない。」
女 「空へ墜ちるって」
父 「道路の少し凹んだ水溜まりだ、水溜りが空を映しているだろう」
女 赤い水溜り覗き込む、確かに茜色の空だ、空そのものが紅蓮に燃えている。
女 お父さん、いくつかの茜色の水たまりを覗き込んで、一番大きい水たまりの前で足をとめた。
父 「これなら人が通ることができるな」
女 「お父さん」
父 「ん」
女 「黒い傘の女の子は」
父 「ここから空へと落ちて行ったんだろう。もうすぐ炎が燃え尽きてしまう。追うなら今のうちだ、闇に戻ってしまうと、黒い傘に阻まれて、あの子を見失ってしまうだろう」
女 「ここを通り過ぎればいいの」
父 「そうだ、だが、俺はここまでだ、お前が一人で行きなさい。行くか」
女 「行きます。なんか、変だね。あんなに怖がっていたのに、今は、気になって仕方がない、あの子のためならなんだってできる気がするんだ」
父 「まるで母親だな」
女 父さん、少し笑うと、水たまりの縁に腰を下ろし、あぐらをかいた。
父 「俺は星の一つになってここから見守っててやろう。どうしてもの時は俺のこれからのすべてを代償に、お前を引っ張り上げてやる。さぁ、行きなさい」
女 「お父さん、ありがとう。行きます」
女 茜色の水たまりへ飛び込んだ、地面が消えた。熱い、私の体が炎を噴き出して燃える・・・、燃える空と一つになる
間
お昼過ぎ、自宅。
女 あれ、目が覚めた、昼下がり、私、洗濯物を終えて、テーブルに座ったまま居眠りしていたんだ。居間のテーブル、食べかけのお煎餅の袋。テレビもついたままだ、そうだ、久しぶりの休日、思いっきり洗濯するぞって・・・ 違う、これ違う、本当じゃない、
ドアを開け放つ音、駆けだす。
女 ドアを開け、外に飛び出した、実家だ、ドアを開けた瞬間、一戸建ての実家の前にいた。
女1 「あら、どうしたの。そんな、慌てて」
女 隣の叔母さんだ
女1 「何処へいらっしゃるの」
女 「子供を、黒い傘を差した女の子を見ませんでしたか」
女1 「さあ、でも、いいんじゃない、捜さなくても。」
女 「えっ」
女 おばさん、いつもと変わらない笑顔を浮かべたまま、薄れるように消えてしまった。な、なんなんだ。とにかくあの子を探すさなきゃ。早く、早く
男1 「おおぉい、どうしたんだい、そんな走って」
女 あれは、あれもそうだ、斜向かいのおじさん、定年退職、今時珍しく悠々自適のおじさんだ。
男1 「なんだ、人捜しかい」
女 「ええ、黒い傘を差した女の子を見ませんでしたか」
男1 「さあてね、まっ、いいじゃないか、かなえとお茶でもしないかい」
女 「急いでいますから、ごめんなさい」
女 えっ、ふうぅっと叔父さんの姿と後ろの風景が重なって消えた。どうして、人がそんなふうに消えるんだ、夢か、あたし、夢を見ているのか。何もかも夢なのか。
少年 「すべてはゆめまぼろし、巨人の見たほんの一時の夢、君の人生はその断章ですらないのさ」
女 少しひねくれた顔付きの男の子が私の前にいた。何処かで見たことがある、この顔。
少年 「お姉さんは真っ直ぐを知らない。だから、どれが真っ直ぐなのか分からないのさ。右手を左の胸、心臓の上だよ、当ててご覧、心臓の鼓動わかるかい。」
女 「分かる、どくどくいってる」
少年 「それが、お姉さんの真っ直ぐだ、そうやって手を当てていれば惑わされないよ。」
女 「君の顔、何処かで見たことがある。」
少年 「僕はお姉さんの顔を知らない、今はね。もう時間がない、急いだ方がいいよ」
女 「うん、ありがとう、お父さん。」
女 そうだ、父さんだ、子供だった頃の父だ。少し手を上げて笑う男の子、君、いい男になるよ。走れ、私は臆病でひきょう者だ、もっと早く受け入れてあげれば、きっと、きっと。
女 まっすぐ、まっすぐだ、塀も家も擦り抜けて、ひたすら真っすぐ走る、真っすぐ走る
音
女 茜色の水たまりは凪いだ夜の海に変わった、静かな海だ。足もとの海、きらきらと漣が月の明かりを照らしている。陸が見えない、ひたすら夜の海のただ中に、私は佇んでいる。私は死んだのか、海に沈むことなく浮いているのは。両の掌を合わせてみる。ぶつかる、透けたりしない、少ししゃがんでみる。 水、確かに水の感触だ、少し冷たい、ひんやりしている。
女 「こんばんは」
女 ほんの少し先、黒い傘をさした女の子がいた
女「大きな傘だね、黒色の、お父さんの傘かな。」
女 なに、つまんないこと言っているだ、私は
少女 「ありがとう」
女 初めて、女の子の声を聴いた。やわらかい、でも、ほんの少し大人びた声だ
女 「ありがとう、もっと早く君に声をかけて、かけてなければならなかった、ごめんなさい」
少女 「ううん、声をかけてくれただけで嬉しい、だって、これはあたしの我が儘だから」
女 「どうしてか、わからないけれど、君にとても会いたかった。会わなきゃって思った」
少女 「それは多分」
女 「多分・・・」
少女 「あたしが会いたいと願ったから」
女 「君は誰、君の名前、教えて欲しい」
少女 「あたしには名前がない」
女 「その黒い傘を降ろして君の顔、見せて欲しい」
少女 「あたしには名前がない、だから、顔もないんだ」
女 「君は誰でもないってことなの」
女 女の子、肯いて、ううん、傘で顔が見えないくせに頷いたのが見えたんだ
女 「君が自分のこと、誰でもないというなら、私が決めてあげる、君は私だ、私自身だ」
少女 「いいの」
女 「いいよ、君は私で、そして、私は君だ」
女 少女がゆっくりと黒い傘を降ろしていく。あどけない、でも少し緊張した少女の顔、唇をぎゅっと結んだその顔は私の子供の頃の姿だ。父さんに初めて会った時の顔だ。私、ゆっくりと女の子に近づき、そっと顔を寄せた。髪をなでる、女の子、少し戸惑ったように目を伏せた。
少女 「自分で選んだくせに、どうしようもなく心細くて、頼ってしまった、でも、もう大丈夫」
女 「何を・・・。そうだ、一緒に帰ろう、そして、一緒に暮らそう、私がお母さんになるよ、だから、ね、一緒に帰ろう」
少女、囁くように。
少女 「ごめんなさい、最後の最後でとっても迷惑をかけてしまって」
父、不意に現れる。
父 「年寄りにこの道行きはきついな」
女 「お父さん」
父 「やはりな。この子は流れを変えることを選んだ迷子、流れを自分たちの体で堰き止めて、溜まった水に違う道筋を与える子供たちだ」
女 「迷子って・・・」
父 「待っているつもりだったのだが、気になってやってきた、来て正解だったな」
女 お父さん、ほっと息をもらすと、座り込んで女の子に笑みを浮かべた。
父 「歳をとると、最近のことは思い出せなくても、ついぞ、昔のことを思いだしてしまう。君のように悩みながらも、思いを遂げようというのは、とてもさ、正直なことだ」
女 お父さん、泣いている、涙を流している。
少女 「人の人生は星に導かれる、そして、星の川、天の川は時代を導く」
父 「今の時代はすっかり狂ってしまっている、この流れをなんとか本来に導かなければならない」
女 お父さん、ゆっくりと空へ指さした。
女 薄墨色の空、いくつもの、数え切れないほどたくさんの、黒い傘の少女達が空へと、空へと墜ちていく。本当に落ちていくんだ。
少女 生まれることをやめて、流れを変えることを選んだ私たちです。星の川を堰き止めて、流れを変えます。変えた流れが良い方へ向かうかどうかはわからない、でも、変えることには違いはないから」
女 ゆっくりと、少女の体が浮き上がりだした。
少女 「ありがとう、君」
女 どうして、どうして
父 「顔を上げて、しっかり見ておきなさい、後悔しないように」
女 「やだよ、お父さん」
少女 「君が幸せになりますように」
父 「娘のこと、ありがとう」
父、女に囁くように。
父 「顔を上げなさい、しっかりと見送りなさい」
女 ぎゅっと、歯を食いしばって顔を上げた。空に落ちていく君、片手でそっと手を振ってくれた。あたし、思いっきり手を振る、からだいっぱい、手を振る。肩が千切れるくらい手を振る。黒い点になって、消えてしまった・・・
女、呻くように。
女 「あぁ、うわぁぁっ」
父 「右の手のひら、心臓の上に置きなさい。どくどくという音がわかるか」
女、息苦しそうに。
女 「うん、とっても大きく伝わってくる」
父 「あの子の笑顔、見えたか」
女 「うん、手も振ってくれたよ」
父 「そうか、良かったな」
女 「うん」
女のすすり泣きが続く。
終わり