私は夢を見ているのだろう、色の褪せた、古い映画のような夢だ。色が白く抜けて、日差しが眩しくて仕方がない。

土葬の習慣がなくなり、交通手段が発達した今では経験した人も少ないだろう、私が見ている葬礼の行列。

夏の暑い日差しの下、小さな鐘を鳴らす音が聞こえる、墓地へと向かう黒の喪服を身に纏った人達が、私の目の前を歩いて行く。行列、中ほどの、桶の形をした柩が私の前を通り過ぎる、この柩の中では、葬礼の主が、我が身我が心が朽ちていくのを静かに受け入れようとしているのだ。
私は、少し、見上げ、彼ら彼女らの顔を見る、どれほど繰り返されたろう、あまりにもたくさんの顔が重なってしまい、自分の顔をなくしてしまった人達だ。

私のこの背中の感触、棺の主の心は穏やかなのだろうかといぶかしむ、背中を預けるこの椅子の堅さが、私に柩の主の思いを共有させるのだ、そうだ、昔、田舎では、椅子を道端に置き、人々はその椅子に座り時間を過ごした、その椅子の背もたれだ。
道行く知り合いと、いくばくかの言葉を交わし、そして、見送るための椅子。

時の流れが過去から未来へと移ろう、それを見送る、椅子に座る私は、確かに時が流れるを見届ける、その後見人なのだ。
私の、この背中の感触は、多分、背もたれのある木の椅子だ、木の椅子に座り、私はこの行列を眺めているのだ。

難しい学問では、必ずしも、時の流れ一定ではないという。

硬い木の椅子に座り、葬礼の過ぎるを思う。少なくとも、この私の見届ける間は、私の責任に於いて、この葬礼の行列の行く末が不可逆であれと念じられて仕方がない。